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因果応報はない。


こんにちわ。


タイトルの内容について最近よく感じることを書いてみようと思います。

 


漠然とどこかで
「因果応報はある」「悪いことをしたら報いがある」
そう思っていました。
悪意を持った人に傷付けられることがあっても、「いつかあの人も痛い目にあう」
そう思うことで堪えてきたように思います。


でも、ある出来事をきっかけに ある意味心の逃げ場にしていた
「因果応報」が「ない」ということに気付いてしまいました。

 


前の記事にも書いた、彼のことです。
彼はまず、わたしとの恋愛に不誠実でした。
というより、わたしは自覚なく不誠実な恋愛の相手にされていました。
婚約者の女性と一緒に暮らしていたのに、彼はわたしには一切言わずに恋愛関係を持ちました。


そして更に、彼は周りの友人に不誠実でした。
周囲の人と一切音信不通にしなければならないような犯罪行為に巻き込まれ
(というより自ら突っ込んでいき)
彼を心配し、手を尽くして行方を捜したりしてくれていた人たちの前に再び戻ったとき
へらへらと笑って反省の色がなかったそうです。


そしてもう一つ私には許すことができない事があります。
溺愛してるかに見えた彼の飼い猫。
脱走を放置し、探すこともせず引っ越してしまいました。
探すことをすすめましたが、探しませんでした。
戻ってこないなら戻ってこないでも仕方ないというような事をいっていましたが、
もし怖い目に遭っていたら?もし引っ越した後に戻ってきたら?
我が家も猫を飼っていますが、理解が全くできない行いでした。

 

それでも彼は仕事に成功し、上記の婚約者の方ではない別の女性と結婚し
できちゃった婚だそうです)
お子様にも恵まれ、新しく別の猫も飼っています。
奥さんの実家で暮らし、生活の心配もしていないようです。

 


なぜなんでしょうか?
もし因果応報が存在するのなら、なぜ彼が幸せになる事ができるのか?

 


彼は人の心に入り込むことが上手い人でした。
彼と新しく友達になった人は誰も彼のことを悪く言う人はいません。


わたしの目から見て、些細な問題であっても責任を負う前にとても巧みに逃げる
そしてその問題が片付いたころ戻ってきて、
その問題で大変な思いをしたり傷ついた人たちに
「だいじょうぶ?」などと声をかけて心に入り込む


そんな感じのことをする人でした。

 


結局因果応報なんてないのです。
器用にたちまわり、責任を逃れ 要領よく生きていく人は
たとえ悪事を働くことがあっても、周りをぼろぼろに傷つけても
あっさりと幸せになるのです。

 


なら、わたしはやっぱり器用でなく、容量も良くないから利用される側なんでしょうか?


時々、周りの人すべてが悪意を持ってわたしを利用している
舐められ付け上がられてる
そんな風に感じる時があります。


自分はいつも正しくいたいと思っているのに、その思考が自分の邪魔をしているような
そんな感覚になります。

 


この感覚についてはあまり良い答えが出せていません。
因果応報があったとしても、それ自体もあまり良いものに最近は思えなくなってきてもいます。


友人が
「自分を不幸にして苦しめた人が不幸になって困ってる。
因果応報だ。やっぱり人の不幸の上に幸せは成り立たない」
と、最近言っていました。

 


でも、自分自身 誰をも不幸にしてないと言えるでしょうか


考えれば考えるほどわからなくなってしまうのです。
少なくとも、誰かが不幸でないことを理不尽に思っているうちは、うまく折り合いも付けれないのかもしれないと
そう思います。

 

 


お読み下さりありがとうございます*